引退始まる 京阪1900系
さて、本日京阪電鉄を訪れた目的は、長きに渡って活躍してきた先々代の特急車、1900系が相次いで運用を離脱することになり、これを記念したヘッドマークをつけて運転しているということで、今回行ってみました。
今回、引退するのは1900系全7編成のうちの5編成で、これら5編成にヘッドマークとステッカーが付けられています。なお、すでに3編成は運用を離脱して現時点でヘッドマーク付きが2編成、まだ残る2編成と合わせましても4編成しか残っていません。
現在、1900系は全編成5両編成で、枚方市から分岐する交野線や中書島から分岐する宇治線といった支線系統で運転されているほか、京都口でも普通運用があったように思いましたが、近年のダイヤ改正で本線での運用は稀になり支線系統での運用がほとんどのようですが、それでも平日の朝・夕に走る交野線からの直通特急や準急に充当されることがあるようです。
今日は、運用がよくわからなかったのですが、京都口では運用は無いと判断して、交野線に狙いを定めて枚方市へ行ってみました。同駅の時刻表で5両編成列車は行ったあとでしたので、これが来るまで待ちました。そして、ようやくヘッドマークをつけた1900系に出会うことができました。
交野線の運用についていた1926 2006年4月2日 枚方市で筆者撮影
1900系に取り付けられたヘッドマーク
この列車で交野線の終点、私市(きさいち)まで乗車して、ここで折り返し時に撮影してみました。
折り返しを待つ 1925-1926編成 2006年4月2日 私市で筆者撮影
京阪1900系は、1956年に製造された1810系と1963年に製造された1900系を統合した形式です。すでに製造されてから半世紀になろうかという車両も存在しています。デビュー当初は、2ドア・転換クロスシートにテレビの設備もあった特急車で、京阪の一時代を代表した車両でしたが1971年に3000系の登場により3ドア・ロングシートの一般車に格下げになり、その後更新・冷房化が実施されました。
今回乗車することができたのは、1925-1926の5両編成でした。この編成をさらに撮影してみました。
1925-1926編成 京都方先頭 1925 2006年4月2日 私市で筆者撮影
この編成の両先頭車、1925と1926は中央の扉だけ両開き戸になっているという、不思議な車体でした。
中間車の1両 1950 2006年4月2日 私市で筆者撮影
私市から再びこの編成で枚方市まで戻りました。今度は上記画像にあります、車体にシルがある1950に乗車しました。この車両は製造が昭和32年(1957年)ということで、まもなく半世紀になろうかという車両でしたが、状態は良く乗り心地も今でも十分に通用すると思いました。
そして、到着した枚方市で再度撮影しました。
再び私市行きとして出発する1925 2006年4月2日 枚方市で筆者撮影
特急車として登場し、その当時の栄光を伝えつつも長きに渡って活躍してきた京阪1900系、全廃まではまだ時間はありますが、今後は数が減ることからさらに見ることが難しくなると思います。なんとか今回その姿を見ることができた京阪1900系、この系列のこれまでの活躍を労い、残された活躍の日々を遠い関東から見守ろうと思います。
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さて、今回は京阪1900系が話題になりました。筆者は過去何度か京阪を訪れています。
そこで、京阪1900系引退にあわせて特別に、過去に撮影した京阪1900系の画像を公開したいと思います。
時は、今から3年前の2003年4月のことになります。この年、京阪では大阪側のターミナルとなった淀屋橋まで延伸して40周年を迎えました。これを記念して、1900系1919-1920の編成に往年の特急色が再現されました。
往年の特急色が再現された1919 2003年4月27日 中書島で筆者撮影
上記編成に掲げられたヘッドマーク
出発した1920 2003年4月27日 中書島で筆者撮影
京阪1900系はたしかに古い車両で、新型車と並ぶとそれをより実感させられたのですが、この姿を見たときは「ズバリ」といいますか「この塗装だ!」と直感しました。往年の姿をご存知の方々にとっては3ドアであったり前面の形状が異なっているなど物足りなさはあったかもしれませんが、私にとっては往年の雰囲気を十分に味わうことができたとともに、1900系の栄光の日々を感じることができました。
なお、1919-1920の編成は現存しており今回の廃車対象にはなっていませんが、現在では一般色に戻されさらに「PiTaPa]のラッピング車になっているそうです。
この日、他の1900系も撮影していましたので、あわせて公開いたします。
1916 2003年4月27日 中書島で筆者撮影 この編成はすでに運用を離脱している
前照灯の形状が異なっていた1914 この車両も運用を離脱している 2003年4月27日 中書島で筆者撮影
姿を消す1900系、長い間ご苦労様でした。そんな言葉をかけてあげたいと思います。
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コメント
確か1925と1926は、元両運転車でした。
3扉化更新時に、窓配置の都合で、この2両のみ真ん中が両扉です。
1900系の廃車のニュースが流れたとき
複雑な気持ちになりました。
大好きな車両の一つでしたから。
これに乗って、通勤・通学・遊びに行ってましたから。20年以上の付き合いでしたから。
残念です。保存してほしいです。
投稿: がいや | 2006.04.03 11:51
がいやさん、コメントありがとうございます。
1925と1926の側面配置についてのご教示ありがとうございます。しかし、両運転台仕様で製造されていたとは、何かしらの予備車も兼ねていたのでしょうか?しかし、特異なスタイルの車両に遭遇したことになりますね。
さて、京阪1900系はもう古いもので半世紀にもなろうかという車両も存在しています。状態が良いことから以外にも思うのですが、やはり寄る年波には勝てないのでしょう。しかし、今日まで活躍してきたという点では「ご苦労様でした」という言葉をかけるのが、この車両の最期には相応しいのではないかと思います。
投稿: Kaz-T | 2006.04.04 00:34
確か、1925・1926は1815・1816と同様、増結用に両運転台で製造されたようです。
どうして片方の運転台を撤去した訳
ATSの導入の際、高価なATS機器購入コストの節約のために増解結運用を終了したことから、1967年に片方の運転台を簡易撤去しました。
投稿: がいや | 2006.04.04 18:17
がいやさん、重ねましてのコメントありがとうございます。
なるほど、増結用だったのですね。その後の運転台撤去の理由もなるほどうなづけます。
過去に撮影した1900系の写真を見ましても、この系列は結構細かいところでバリエーションがあったようですね。京阪の歴史に刻まれた1900系の経歴を物語っているようにも思えます。
投稿: Kaz-T | 2006.04.04 23:48
そうなんですよ、全般的に京阪の車両には
細かく項目を付けて分類すると、ホントに細かくなります。
特に、この1900系と2600系は
細かくなりすぎて、一つの車両の改造・更新などの履歴を追っていくと、すごい歴史になります。
更に台車の種類が多すぎ!
「京阪=台車博物館」といっても過言ではないような・・。
投稿: がいや | 2006.04.05 09:19