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2005.11.10

玉電カラー電車登場!東急世田谷線300形

本日は、お休みを頂きました。そこで、東急オフィシャルウェブサイトのリリースに掲載された「玉電カラー」が再現された世田谷線を見に行ってきました。

東急世田谷線は田園都市線三軒茶屋から京王線の下高井戸を結ぶ路線です。現在でも「軌道線」の扱いになっています。かつては渋谷から二子玉川園(現:二子玉川)を現在の玉川通り(国道246号線)の路上を走っていた玉川線(通称「玉電」)の三軒茶屋から分岐していた支線でしたが、1969年に渋谷~二子玉川園が廃線となったあと、ほとんど専用軌道であった三軒茶屋から下高井戸の区間が現在でも「世田谷線」として残っています。
その世田谷線も、現在では編成ごとに車体の色が異なるカラフルな連接車300形で運転されています。今回の企画は、かつて「玉電」を走っていた200形の登場50周年を記念して、当時の玉電塗装が再現されました。

今回も、そのような企画が実施されているとあって早速撮影してきました。

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玉電カラーが再現された300形 301 2005年11月10日 若林~松陰神社前で筆者撮影

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世田谷線の名所「若林踏切」 2005年11月10日 西太子堂~若林(環七通り・若林踏切)で筆者撮影

世田谷線は先に記述したように全区間が専用軌道であることから、路面電車的な併用軌道区間はありません。
しかし、世田谷線が分類上は路面電車であることを感じさせる箇所があります。2枚目の画像を撮影した「若林踏切」です。
都内有数の幹線道路である「環七通り」を横切るこの踏切は、道路のほうが信号のみで遮断機などはなく、電車も道路が青信号の時は踏切手前で停止して信号が変わるまで待つという光景が繰り広げられます。道路と電車道の交差点といったところでしょうか。

さて今回の企画は、200形デビュー50周年ということで玉電塗装が再現されました。現在の300形デビュー以前の世田谷線のラインナップは70形・80形・150形といずれも旧型車で、この時点ですでに存在していなかった200形とは、はたしてどんな車両だったのでしょうか?現在200形の204号車が田園都市線宮崎台駅前にある「電車とバスの博物館」で保存・展示されていますので、この撮影後に行ってみました。

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「電車とバスの博物館」で保存・展示されている200形204号車 2005年11月10日 筆者撮影

これが、今年で登場50周年を迎えた200形です。1955年にデビューし、渋谷と二子玉川園の間の玉川通り・国道246号線を走行していた当時の花形車両で、床を低くした連接構造で車体断面が卵型をした車両でした。その風貌から「ぺこちゃん」「いもむし」といった愛称で親しまれた、玉電の人気者でした。
しかし、低床構造や連接などといった特殊な構造であったためか、デビューからわずか14年後の1969年、玉川線(渋谷~二子玉川園)廃止とともに全車両引退しました。
玉川線廃止の理由は、交通量の増大により路面電車が邪魔者扱いにされてしまったという、この当時各地で見られた理由であったといいます。玉川線の廃止から8年後の1977年に、「新玉川線」がこの玉川線の路線をトレースするような感じで地下路線で開業しました。その新玉川線も2000年8月で田園都市線に組み込まれて、その呼び名はなくなりました。

しかし200形のコンセプトは、現在LRTなどと呼ばれる低床形の路面電車の設計を早くも実現していたことになり、今でもその思想は十分に通用するのではないかと思います。見方をかえますと「早すぎた車両」であったのかもしれません。
自分は玉電廃止時にはまだ生まれておらず、それこそ200形が走行していたところなど見たこともなく、現在の三軒茶屋付近の玉川通りの風景から、その昔この路上を電車が走っていたなどとはとても考えられない状況になっています。しかし、200形が示した意思は現在の300形に受け継がれているとも思え、これからも世田谷の地域の足として世田谷線は活躍していくことでしょう。

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コメント

現役の玉電は渋谷の駅で何度も見ていますが、乗ったのはわずか2回だけです。渋谷ー池尻と池尻ー下高井戸
でおそらく80系だったと思います。200はすれ違いしか見られませんでした。座席から屋根がしっかり見えたのですから相当低かったはずです。玉電は腰高の車が多かったからですね。
200は抵抗器が屋根上にあった関係で傷みが早く廃車が先になってしまったようです。技術の東急を証明すべく車両でした。

投稿: SATO | 2005.11.11 00:24

SATOさん、コメントありがとうございます。

かつての世田谷線の車両はいずれも高床であったことから、300形デビュー時は床が低くなり乗りやすくなったと感じました。
200形の床が低いのは、間違いないと思いました。しかし、屋根に抵抗器を載せていたとは、この時代を考えますと、よくこれだけの低床車を開発したと改めて感心しました。それゆえに廃車も早かったとは、やはり「早すぎた車両」だったのでしょうか?

投稿: Kaz-T | 2005.11.11 01:05

 はじめてブログを見させていただき、丁寧に書かれているなぁ、と同じ趣味人として思いました。
 さて今回の200形風塗装ですが、やはりオリジナルを知ってしまうと違和感があります。現在の低床車の普及を見ると、まさに”早すぎた”ものだったのでしょうね。母などは通学に使っていたそうですが、特にすごい!との印象はなかったそう・・・。一般の人から見ればそんなものなのかもしれません。
 それでも保存車としてこの世に残っていることはすばらしいことで、後世にしっかりと伝えていって欲しいと思います。

投稿: りばてぃ | 2005.11.19 13:58

りばてぃさん、弊ブログにようこそお越しくださいました。コメントいただきまして、ありがとうございます。

私は200形が活躍していた姿を見ることができなかった世代になりますので、この玉電カラーは新鮮に見えましたが、やはりオリジナルから見ますと違和感を感じてしまうのではと思います。

しかし、200形は204号車が保存されているのは、やはりこの車両は人気があったという点で、すでに現役で活躍していた時より、保存されている期間のほうが長くなってしまった204号車ですが、今から50年も前に今日のLRTの思想を示した車両が存在していたことをこれからも伝えていくことでしょう。

さて、弊ブログは鉄道の話題や旅行記などで構成されているブログです。これからもよろしくお願いいたします。

投稿: Kaz-T | 2005.11.20 00:44

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